私の経歴などをご紹介します。

1962年(昭和37年)奄美大島生まれ。
父は鹿児島県庁の大島支庁で働いていました。幼い頃は、父方の祖父母と、父と母と姉と私の6人家族でした。
父は他界していますが、母は健在で習い事を楽しみながら暮らしています。姉は東京で教員をしています。
祖父は私を溺愛してくれました。唯一の男の孫だったからでしょう。私が泣かされて帰ると、泣かせた相手を怒鳴りにいくほど(笑)
父の兄(伯父)は、東京で税理士事務所を開業しており、当時、奄美奨学会という故郷の子弟の教育支援を行っており、子供心に偉い人だなと感じていました。
私が幼い頃は、まだ奄美が日本に復帰して10年足らずの頃でしたから、当時の奄美は田舎というか、インフラも整備されていなかったです。

3歳ぐらいの私です。写真がモノクロなのが時代を感じさせますね。
奄美大島では、名瀬小学校、金久中学校と進級しました。中学校の頃は成績も良かったので、鹿児島の進学校の錦江湾高校(きんこうわんこうこう)の理数科に進学しました。
ここまでは順調でしたが、錦江湾高校理数科での成績はどん底でした。入学後、みるみる成績がさがり、最下位付近であがくようになりました。
高校を卒業して、浪人します。2年かかりました。この浪人生活で私の性格ができたように思います。変な意味ではなく、成人前に2年間、社会に対峙したときに「無職」「自由人」 = 所属する場所のない中で過ごした経験は、私には貴重な財産です。名門「河合塾」で鍛えられたものです。
第一志望であった憧れの慶応大学経済学部に、奇跡的に合格できました。受験科目で数学があったので助かりました。浪人生活の反動もあってか、入学すると、覚えたての酒に明け暮れ、2度、留年しました。
大学卒業時には26歳になっていました。慶応大学は有名大学ですが、さすがにこの年齢では有利な就職先は望めません。
「どうせ遅れたのなら、いっそ難関資格を取って独立してやれ」と考えました。ばくち打ちの性分なんでしょうね。
さすがに、公認会計士試験の勉強をしていた4年間は死に物狂いでした。
(4度目の受験で合格するまでは)もう後はないという焦りと、年老いた故郷の両親のすねを30歳目前までかじっていた訳で、このまま(試験に合格しなければ)故郷には戻れないという脅迫観念に悩まされました。
この時期のプレッシャーは難関資格を目指す方々には特有でしょう。私は優等生ではなかったので、まだ楽天的に考えられるほうでしたが、会計士試験の受験仲間には、相当悩んでいる友人もいましたよ。
その後、朝日監査法人(現あずさ監査法人)福岡事務所で会計士補→会計士と育てて頂きました。このときの経験と、人の縁が、今の私を支えています。
父の死を契機に奄美に戻り、公認会計士・税理士事務所を開業しました。
馬鹿は死ななきゃ直らないというか、せっかく故郷で開業したものの、自分を律することができずに(独立すると会計士事務所に勤務していた頃より、ずっと時間が取れるわけで)いつしか、また、お酒に手を出しました。
酒を飲みながら考える。考えながら酒を飲む。
理由はいくらでもありますが、アルコール依存症になりました。手が震えて自分の名前が書けないほどといえば、想像できるでしょうか。
この時期は、自分に嫌気がさしていながらも、飲まなければ精神的にも肉体的にも苦しみからのがれることができなかったです。
私は酒をやめるきっかけを待ち望んでいました。そして、 チャンスがやってきました。上からも下からも血を吐いたのです。そこで病院に行き、医者から「やめるのもやめないのもあなたの意思次第ですよ」と言い渡されました。
それを機に酒をやめていきました。 やがて、私なりに屋宮マーケティングエッセンスの雛形を構想しながら、酔いから、完全に目が醒めました。
そしていま、こうしてホームページを運営している次第です。

屋宮 久光 略歴
鹿児島県名瀬市(奄美大島)出身。慶応大学経済学部卒業。朝日監査法人(現あずさ監査法人)入所。主に監査に従事(監査先 久光製薬、岩田屋、NTTドコモ九州、福岡大学、筑紫女学園、九州産業大学など多数)
奄美でたった一人の公認会計士。
現在、屋宮公認会計士・税理士事務所で監査業務、税務業務に従事。平成16年より独立行政法人奄美群島振興開発基金監事に就任(独立行政法人では全国最年少の役員)。

